義憤の人

義憤の人

 

事件・事故・不祥事・その他トラブルが発生する度に、首を突っ込んで怒りを露わにする人たちがいる。私は別に "それ自体" に文句をつけるつもりは毛頭ない。非道徳は糾弾されて然るべきなのだろうし、『ケッ、狭義心なんてくだらねえ』とスカした態度を取るつもりもない。

 

ただ、"彼ら" のような、『トラブルに際して怒りを表明する人』を個人単位で見つめた場合に、首を傾げてしまうケースに遭遇する。

 

というのも、彼らの一定数は常に何かに対して怒っている。しかも、特定の物事に限ってではなく無差別に。ヤフコメ民ツイッター民然り、この手の人の発言履歴を漁ってみると、次から次へと何かに怒りを感じ、その気持ちを表明しているのが特徴だ。

 

  • 事件Aが発生→シュバババ(走り寄る音)→『許せない!死刑にしろ!』

 

↓ 数日後 ↓

 

  • 事件Bが発生→シュバババ(走り寄る音)→『許せない!死刑にしろ!』

 

↓ 数日後 ↓

 

  • 事件Cが発生→シュバババ(走り寄る音)→『許せない!死刑にしろ!』

 

だいたいこんな風に常にキレている。これだけ見れば『さぞかし正義感が強いんだろうな』というただの感想が浮かぶだけだが、それにしてもフットワークが軽く、そして、その怒りがすこぶる安っぽく見える。

 

常に矛先があっちこっちへ移動しているのだから、そりゃ安っぽくも見えるだろう。例えば、コロコロと交際相手を変える人が愛を語っている様を見たらチープに見えてしまうだろうし、こんなジト目にもなってしまう。

 

ジト目


上記のことについては、以前に私が近しいことを述べている。

 

彼らにとって重要なのは、起こっている出来事や問題を起こした相手ではなく、『自身がそのトラブルに際してどれほど目立つ発言を呈すことができるのか(いいねや共感が得られるか)』なのである。

 

あくまで対象は目的ではなく、自己顕示の手段───踏み台でしかない。だから、結局相手が悪者なら何だっていい。空気的に正義や苦言をぶつけても良い相手なら何だって誰だってかまわないのだ。

 

炎上イナゴが最新のトラブルに怒ってはすぐ次へ、次のトラブルに怒ってはすぐ次へと、そうした忙しないルーティンを繰り返すのは、実際はそのトラブルに対して何ら問題視などしておらず、仰々しく危機感を口にする割には実は大して何とも思っていないし、当事者意識なんてものも持ち合わせてはいない。

 

彼らは、炎上バッシングへ参加していいねを集めることにしか興味がない。彼らにとっての炎上とは、正論と人格批判を発表するための大喜利イベント会場。いいねを貰いやすい期間限定のボーナスステージ。

 

SNSにおける魔性のいいねと批判に溺れる人たち - ぐっぱいずリーフ

 

私は上記のような人ばかりであると思っていたが、決してそればかりではなく、中には本当に心底な怒りと当事者意識を持つ者もいるように見受けられる。

 

そう、まさに義憤だ。"義憤の人"

 

ある人が彼らをそう呼んだ。

 

義憤の人は今現在起きているニュースに怒り、そして新しいニュースが発生すれば、すぐさまそちらに怒りを表明する。正義感のある者の少ない冷笑的な匿名の場においては、彼らのような素直な怒りを露わにする者は散見されないが、ツイッターやヤフコメのような場所にはそれなりに数多くいるし、特にSNSは怒りが伝染しやすいと言われている。

 

ある人曰く、『彼らは怒ることでコンテンツを消費している』と言う。要するに、怒ったり自分が正義(正常)であることを実感するという手段で以って、彼らはストレスを発散しているが、彼らはその事実を自覚してはいない。したがって、今後もずっと軽やかなフットワークであちこちへ怒り続け、私刑の声を高らかに叫び、そしてすぐに別件へ飛びつく。某美食家風に言えば "怒りの宝石箱" だ。

 

 

冒頭でも述べた通り、悪事に怒りを感じることは何の問題も無いと思っている。道徳を有しているのだから、正義感に欠けつつ不謹慎で幼稚な私よりずっと立派だ。頭が上がらない。しかし、情報に対してあまりにも軽率で脊髄反射のごとく飛びつくようになってしまうと、デマだろうが集団心理だろうが、いとも簡単に流されてしまう。

 

短絡的で正義感の強い人は敵や悪者を吹き込まれるとすぐに信じるがために、デマに乗せられやすく、またプロパガンダに利用されやすい。彼らは不確定な情報で悪を断定するのが好きだ。よく言われることだが、不安だからこそ明確な悪が欲しいのだろう。

 

 

自分や周囲の望む意見だけを妄信するという意味では、彼らも違った意味で "無敵の人" だ。反論は一切聞き入れないという無敵性。そして、『自分たちが間違っているはずがない』という主観的な無謬性の確信。

 

彼らは今後も怒り続ける。事件・事故・不祥事・炎上・不謹慎・他人のミスに強い怒りを表明し、断罪を望み、そしてすぐに忘れる。

 

 

ときに、大川隆法という人物が私の意見に抗する旨の発言をしている。それが以下だ。

 

ただ悪を見て義憤を起こす人をバカにし、何もしないことをもって、知恵ある者のごとく装う、冷めた人々の態度には共感できない。世を救わんとする人々をなぜ笑う。

 

───大川隆法 『心の指針』

引用:https://happy-science.jp/feature/kokoro/9294/

 

なるほど、既存の道徳を軽視する冷笑主義とその輩が嫌いと見える。

 

しかし、勘違いしてほしくないのは、私が疑問視しているのは考えなしの義憤という点である。デマや嘘っぱちに流されたり、あくまで自身の顕示欲のためにコトへ飛びつく薄っぺらい "義憤の体を成すナニカ" を私は見つめているに過ぎない。まるで、フェミニズムの皮を被ったミサンドリストのような歪なナニカ。紛いもの。

 

また、自らの嫉妬や私怨を、義憤と捉えられる形で偽装させているだけの紛い者もいて、私はそんなものを道徳とは呼びたくもない。例えば、自分が妬んでいるだけの対象がポカをやらかしたときに、まるで鬼の首を取ったかのように意気揚々と正義(錦)の御旗でぶん殴る行為。嫉妬に正義のカバーを被せて叩く紛いもの。

 

 

いずれにしても、義憤を総じて肯定することが健やかであるとは言えない。例えば、昨今支配力を拡大している、司法の判決を認めずに翻そうとすることはおろか、あまつさえ有志による私刑を叫ぶ人たちの義憤が正しいとはまるで思えない。

 

これらのことから、外面的に義憤に見えることを十把一絡げに義憤として肯定する言動を私は断固否定する。考えなしの脊髄反射的な義憤は、デマや冤罪および私刑を拡大させるだけの害悪だ。

 

 

必要なのは、客観性と知性を伴った義憤。義憤を持つにも一定の資質が要る。誤りを容易く信じるような人間が義憤を抱くくらいなら、最初から鼻で笑って何もしない方がマシというものだ。

 

私をはじめとする愚者の短絡的な怒りというものは、『無能な味方こそが最大の敵』と言われるように、存在するだけ害を成すということもあり得る。怒るならば、それこそ悪へ対して正確無比かつ適切に怒らなくてはならない。

 

プラトンによれば、もっとも極端な不正とは、不正が正義と見なされることである。

 

───ミシェル・ド・モンテーニュ 『エセー』