暇じゃない現代はつまらない人間の価値が無い

暇じゃない現代はつまらない人間の価値が無い

 

このご時世、暇になる方が難しい。

 

以前のAさんなら、暇な時間となればエッチな本を読んだり、テレビを見たり、権蔵や幸子、たかしとおしゃべりするしかなかっただろう。

 

しかし、そんな平穏な世界は一転する。突如現れたインターネットの襲来により、人々はエンターテインメントアクメの渦に飲み込まれた。本とテレビと釣りとドライブとスポーツとおしゃべりとスイーツ(笑)だけの世の中に、インターネットというコンテンツ量がインフレだかオーバーフローした革新的な娯楽媒体がやってきた。

 

未曽有のエイリアン───インターネットの到来に、人々は夜空へ向けてアヘ顔を浮かべた。

 

あ゛ぁ♡あ゛ぁぁ♡すこ゛、しゅこ゛ひぃい♡ネット゛♡お゛ッ♡きてり゛ゅ♡コンテンツ来てる。

 

エッチな動画を見れる、SNSも使える、ネットサーフィンもできる、タダでゲームもできる、好きなだけ通話も可能。もはや暇になる方が難しい。選択肢も可能性も∞。人々はインターネットへ夢中になり、SNS廃人や2ちゃんねらー、オンラインゲーム廃人などが次々に輩出されていった。

 

 

コンテンツが多いと末端の人はより末端になる

ネット上にコンテンツは多い。ありえん多い。聖母マリアの愛でも包み切れないほどの邪悪と娯楽。

 

なにせ昔はメディアや有名人だけがコンテンツを提供してたところを、インターネットなら誰でもコンテンツを発信できる。もはや垣根は取っ払われた。発信力を持つことが、マスメディア様の特権ではなくなったのだ。

 

しかし、いくら『誰でも情報を発信できる』とは言っても、当然のように見てもらえるのはネームバリューのある人だけであって、私のような無名ザコの一般ピーポーは誰にも注目してはもらえない。

 

無名ザコ...例えば、栃木県にお住いの佐々木裕也(10)が、YouTubeにお菓子のレビュー動画を出したところで誰も見やしない。みんなが見たいのは何かしらすごい有名人なのであって、ただの一般人A、村人A、モブに興味はない。

 

となると、私らのような無名ザコは消費する側、有名人をキャッキャキャッキャと取り囲む有象無象の一部となり果てる他なかったりする。無名はネットの末端だ。中心で衆目を集めているのはいつも有名人だけ。

 

かといって、末端は末端同士で繋がるかと言えばそうでもない。末端は中心ばかりを見ていて、同族─── "横" をあまり見ない。

 

本来人間は同じ階級の人同士で輪を作っていくものだけれど、今ではなかなかそうもいかない。みんなで真ん中を見つめているため、末端同士で愛の環はなかなか作れない。仮に作れても脆い。ニュースでもよく言われている通り、現代人の人間関係は希薄だ。薄っぺらい。連絡先を削除すればたいてい終わる。削除しなくても利害が一致しなくなると終わる。暇つぶしに使えないと終わる。

 

その証拠に、つまらない人と同席している人は、しばしば対面している相手そっちのけでスマートフォンをいじくり始める。要は "その人 << ネットのコンテンツ" なのだ。

 

 

末端を見ている者はほとんど誰もいない。ときに、中心側が末端を認識することはあるが、それはあくまで群衆としての末端止まりであり、個の認識にはならない。ここが一対複数におけるコミュニケーションの悲劇だ。末端は結局ほとんど誰にも見られておらず、末端は基本的に見る側───ウォッチャーや囲いでいることを余儀なくされる。名もなき有象無象の出来上がりだ。

 

 

かつて、人と人とがつながる理由は暇だったからだ。暇だったから特に理由が無くてもたかしとおしゃべりをしていただろうし、ひろしとファミレスで駄弁っていたかもしれないし、あきひろはホテルでワンナイトラブをしていたかもしれない。

 

だが、繰り返すが今は暇ではない。いつも誰もがネットの中央、有名人、インフルエンサー、一大コンテンツばかりを見ているし、その上それらのコンテンツが次から次へとネクストコンテンツを提供してくるため、私たちを飽きさせることがなく、興味は尽きない。楽しい。次々と出てくる新サービス、新ゲーム、新ガジェット、新映画、新アニメ。暇どころか時間が足りない。

 

さて問題です。その忙しい時間、少ないリソースを無名人間に割く余裕があるでしょうか。

 

 

有名人による注目の奪い合い

暇ではない今の世は、情報発信者がオーディエンスの限られた時間を奪い合っている。俺を、俺の才能を、私のコンテンツを見ろ、と。

 

自分を見てほしい

 

それに対し、オーディエンスはそれぞれ好みのインフルエンサーへ夢中になる。多忙と言われる現代人の貴重・最重要リソースである余暇時間を割いて彼らを見つめる。すべては娯楽のために。そして、その切り売りされた時間が割かれる先に、末端、無名、ザコ、ノーネームバリューの名が鎮座する場所はない。頭が高い、分不相応でござる。

 

よって、今は以前よりも才能の無い人の価値が低いと考える。暇じゃないからおしゃべりにすら使われない。

 

もしネットが無かったら、みんな暇と孤独に耐えかねて、つまらない奴とでも喜び勇んで遊ぶだろう。でも今は違う。つまらない奴と関わって暇をつぶすくらいなら、みんな喜んでYouTubeやツイッターのインフルエンサーを見る。楽しいことがある程度保証されているからだ。つまらない奴と関わった後のように『あーあ、時間無駄にした』という後悔も無い。

 

インターネットの発達により、多才な者ほど注目を浴びることができるようになり、対照に、そうではない者ほどスポットライトから外れた場所にいることを余儀なくされる。

 

 

みんな他人を自分の引き立て役だと思っている 

一度は目にしたことがあるであろう、『言うほど人はお前の事なんか見ていない』という、自意識過剰を治める言葉があるが、まさにまさにまさに今その言葉がストレートに刺さる時代だ。誰も "お前" の事なんか見ていない。"お前" に興味のある奴はいない。

 

そう、興味だ。仮に絡み合う末端同士の関係があったとしても、興味を持たれている保証は何もない。言うなればSNSの義理相互フォローのような空虚な関係である可能性の方が高いと考える。そう論ずる明確な根拠こそないが、末端が有名人にばかり着目しているという事実を踏まえると、どうしても末端同士の関係は義理的なものではないかと、つい下衆の勘繰りを入れてしまうのだ。 

 

それにネットが無くても、元より自己表現したがる人間というのは、自分ばかり見ていて、各々が『他人は自分の脇役だ』と思っている。みんな、他人こそが自分の引き立て役だとばかり思っているから、結果として誰もが自分だけを見ていて、他人を見ていないことになる。こうした点でも末端は見られていないことがわかる。みんな一人芝居だ。私もこのブログで影踏みしている。

 

彼らのこういう計算は、しかし間違っている。自分こそ注目される役者であり、他の者は観客だと思っているからだ。それぞれがそう思っていて、観客がいないという芝居なのだ。だから、結局は誰も注目されていないことになる。

 

人はみなそれぞれに目立とうとしている。だが、注目されるという目的は果たされない。なぜなら、他の人みんなが自分の観客だとそれぞれに思っているからだ。

 

───フリードリヒ・ニーチェ 『人間的な、あまりにも人間的な』 より

 

私の過去の知人に、『自分の繋がっている人たちは暇つぶし用の下僕であり、私を楽しませるために存在する』と尊大に自惚れている人がいた*1。本当にいた。だがそんなのは思い上がりだ。

 

結局のところ、彼に注目している者など誰もいやしない。彼のフォロワーからすれば、そいつこそが自分を楽しませるための役者なのだから。

 

 

ネットの末端に値打ちは付かない

末端人間に値打ちは付かない。ネットならなおさらだ。提供すること無く、ただ消費するだけの上に存在感が無く、観測できない。

 

この先、さらに娯楽の幅が広がっていくと仮定するなら、今以上に人と人のつながりは脆弱なものになり、社会における個人の価値はズルズル落ちていくだろうし、さらに言うならAIが台頭すればもっと凄惨なことになる。

 

そう考えた場合、ショーペンハウアーの受け売りである、他人に幸福感を委ねてはならないという訓えがブスリと刺さってくる。的を射る。

 

やがては他人が自分を見てくれるという機会が徐々に減っていくだろう。みんな、アルファを囲ったりAIをメインの会話相手に据えるような世の中になる。一般ピーポー対一般ピーポーのコミュニケーションは激減し、有名人一対集団のコミュニケーションになる。その中で他人の承認を幸福感の軸に据えている人間は、徐々に徐々に幸福感ステータスバーがすり減っていく。不幸になっていく。他人が私を承認してくれないと言って癇癪を起こす。

 

恐らくこの問題は、男性よりも女性側に多く発生する。女性にとって共感やそれを恒常的に獲得するためのコミュニティは幸福感の源泉であり、それらを失うことは死活問題だ。誰も自分を認めてくれなくなった暁には、フェミニストのように、こじつけで他者を叩き始める輩が世に数多く放たれるかもわからない。こんな世の中が悪い。私が幸せじゃないのはお前ら社会のせいだ、と。きっとヒステリックな女性は増える。

 

 

日を追うごとに私たち個人の価値は削れ、相対的にコンテンツのバリューが上昇しつつある。もはや末端の人間はヒマつぶしの "コンテンツ" として不十分だからだ。ただの人では暇つぶしに相応しくない。

 

『人間はコンテンツではない』と思いたい人も中には絶対にいるだろう。

 

でも違う。他人はどこまで行ってもコンテンツでありNPCだ。なぜなら、人間はエゴイストだから。どんな大気名分や綺麗事を並べていても、結局のところ自分第一という絶対的な序列は揺るがない。となると、あらゆるものの観点は自分に役立つかどうか、使えそうかという話になる。その他のもっともらしい理由は、後から付いてきているだけだ。

 

親も子も友達も恋人も憧れの有名人も全てコンテンツだ。他人を哲学的ゾンビ*2だと仮定するなら、NPCという表現がもっとも相応しい。むろん無条件で自分がそれらの上位者ということにはならないが。

 

人間がエゴで生きている以上、他者は消費するためのコンテンツに過ぎない。人間を創造する偉大な子作り育児ですら、言ってしまえば暇つぶしのコンテンツだ。人生の義務でも必須タスクでもないことをやるんだから、コンテンツと見なしても異論はさほど出ないだろう。命を育てる育成ゲーム、すなわち暇つぶしだ。労力はかかるがきっと楽しいのだろう。でなければ、エゴイストだらけのこの世の中へ、あれほどまでに子育てが定着したりはしない。

 

 

暇つぶしの相手───コンテンツ。

肯定してくれる気持ちいい相手───コンテンツ。

心が安らぐ相手───コンテンツ。

 

人は他人を "消費" している。消費という表現はいささか心象が悪いものの、しかし事実であると考える。

 

私のこの記事を読んでいるあなたは、私の記事が読むに値する暇つぶしコンテンツとみなしたからこそ、ここまで読み進めた。そうでなくては、あなたは今この文字をインプットしていない。あなたは私を消費し、読まれた証拠となるPVを私が消費して心地よくなる。大事な時間を使って私のブログに訪れたことに圧倒的感謝。

 

 

壁のシミ

社会的に消費される価値も無くなった人間は、空き地か裏路地の壁のシミにでもなるだろう。特異な才がない私もいずれはそうなる。ヴァーチャルと現実の序列が歪んできている世の中では、本当にそうなってもおかしくはない。他人の欲を満たしてやれない人間に需要は無く、一人で腐り果てることは必至。

 

壁のシミ

 

だからこそ、みんな隅で忘れ去られるのが怖いからこそ、SNSなりブログなりYouTubeなりで自己の居場所とネームバリューを獲得するために汗水垂らしている。

  

末端は孤独を受容するか、意地でも横に関係を拡げるかの分水嶺に苦悩する。あるいは、自分自身が注目される有名人───中心の一部となるべく努力していく。

 

昨今、インフルエンサーになろうと目論む者は後を絶たないが、彼らはひとえにお金や支配力のためだけに努力しているのではない。注目してほしいから、ステージの隅───舞台幕の裏で一人さみしく腐りたくないからこそ、インフルエンサーを目指しているのだ。 

*1:そこまで直接的には述べていないものの、間接的に同じ旨の発言をしていた

*2:生理的反応を持ち、普通の人間と全く同じであるが、クオリア(自我意識)を全く持っていない人間